アキヒロ・アイク・イクハラ(アイク生原)の経歴とプロフィールや大谷翔平との関係まとめ

アキヒロ・アイク・イクハラ(アイク生原)さんをご存知でしょうか。

若い方だとあまり馴染みがないかもしれませんが日米野球交流の礎を築いた人物として知られています。

大谷翔平選手をはじめとする多くの日本人メジャーリーガーたちに与えた影響は計り知れません。

本記事では、生原氏の経歴やプロフィール、そして大谷選手との関係について詳しく解説します。

アキヒロ・アイク・イクハラ(アイク生原)さんの経歴

引用元: https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20170519/bbl1705191700006-n1.htm

こちらがアイク生原さんです。

経歴を順をおって紹介していきます。

生い立ちと高校・大学時代の活躍

生原昭宏氏は、1937年1月20日に福岡県田川郡香春町で生まれました。

ちなみに、名前から日系人と誤解されがちですが福岡生まれの生粋の日本人です

まぎわらしいですよね笑

もっとも最近はカタカナの名前でも純日本人の方がちらほらいたりするので、もしかすると思い当たる人はいるかもしれません。

高校は福岡県立田川高校を経て、早稲田大学に進学し、野球部で活躍しました。

1959年にはリッカーミシンに入社し、社会人野球でもその才能を発揮しました。

亜細亜大学での監督経験

1961年、アイク生原さんは亜細亜大学硬式野球部の監督に就任しました

当時、同部は東都大学リーグ3部に所属していましたが、彼の指導のもと、1964年秋には1部昇格を果たすなど、短期間で飛躍的な成長を遂げました。

渡米とロサンゼルス・ドジャースでのキャリア

自身の指導法に疑問を抱いた生原氏は、野球を探求するため、1965年3月にアメリカへ渡りました。

ロサンゼルス・ドジャース傘下のマイナーチームであるスポケーン・インディアンスで用具係としてキャリアをスタートさせました。

最初は無給のインターンとして働いていたそうです。

無給で働くのはよっぽど強い思いがあったのだと思います。

当初は英語が話せず、時には人種差別を受けることもあったそうですが、黙々と業務をこなし、次第にチームから信頼を得ていきました。

ドジャースでの用具係から要職へ

当初、用具係としてスタートしたアイク生原さんですが、その後、ドジャースでメジャー組織と球団経営を学びました。

やがて、彼の誠実な働きぶりが評価され、チーム内で重要な役割を担うようになりました。

ピーター・オマリーがドジャースの副社長に就任すると、アイクさんもそれに従ってドジャースのフロントで働くようになり、ピーターの秘書、さらにオーナー補佐・国際担当の要職に就き、世界中を飛び回りながら働いていました。

日本人選手のサポートと指導

生原氏は、多くの日本人選手がアメリカで成功するためのサポートを行いました。

例えば、1983年には右肘を痛めた村田兆治投手に対し、整形外科医のフランク・ジョーブ博士を紹介し、トミー・ジョン手術を受けさせるなど、選手生命を救う手助けをしました。

突然の死去

ところが、1992年6月に腹部に異常を訴えて入院し、同月18日に日本で手術を受け7月16日にはアメリカに戻り、8月に再手術を受けるなど、突然病気になり、治療を受けていました。

ところが、同年10月26日に病気療養中のセンチネラ病院で死去しました。

55歳でした。

死因は胃がんだったようです。

アイク生原さんはとても健康に気をつかう人物だったそうです。

それなのに55歳という平均寿命から考えると若い年齢でなくなってしまうのは報われませんね、、

野球殿堂入りとアイク生原賞の創設

死後もアイク生原さんの功績は高く評価され、2002年には特別表彰で日本の野球殿堂入りを果たしました。

また、彼の名前を冠した「アイク生原賞」が国際野球連盟(IBA)によって創設され、野球の国際的普及に寄与した人物としてその名が刻まれています。

アキヒロ・アイク・イクハラさんのプロフィールは?

経歴に書いた内容と重なりますが、プロフィールもまとめてみました。

名前アキヒロ・アイク・イクハラ(アイク生原)
本名生原昭宏(いくはら・あきひろ)
生年月日1937年1月20日
死去1992年10月26日(享年55歳)
出身地福岡県田川郡香春町
学歴福岡県立田川高校→早稲田大学卒業
選手歴福岡県立田川高校→早稲田大学→リッカーミシン硬式野球部
指導者歴亜細亜大学
家族構成妻、息子2人

アキヒロ・アイク・イクハラさんと大谷翔平選手の関係とは?

ところでアイク生原さんですが、大谷翔平選手と同じドジャースに在籍していました。

関係があったりするのでしょうか?

アイク生原さんは1992年に亡くなっていて大谷翔平選手は1994年生まれなので、当然ですが直接の交流はありません。

ですが無縁なわけでもないようです。

解説していきます。

大谷翔平選手のドジャース移籍会見にて言及されたアキヒロ・アイク・イクハラさん

実は大谷翔平選手のドジャースへの移籍会見で、アイク生原さんの名前が言及されていました

フリードマン編成部長がアイク生原氏の名前を挙げて、彼の功績に敬意を表していました。

「ドジャースは、日本と長くそして豊かな歴史がある。ウォルター・オマリーとアキヒロ・アイク・イクハラから始まり、最終的にヒデオ・ノモ、ヒロキ・クロダ、ケンタ・マエダ、数え切れないほどの選手の入団につながった」

引用元: https://www.jvta.net/tyo/fizzy-juice-52/

アイク生原さんが築いた日米野球交流の基盤が、その後の野茂英雄さん、前田健太さんなど現代の日本人選手の入団に繋がっていることがわかる言及だったなと思います。

アメリカの方からすれば、日本人は日本人という一括りで見るので、「あの日本人が良かったからまた日本人を採用してみよう」となるのかもしれませんね。

それが繋がって大谷翔平選手のドジャース入団に繋がったとすれば感慨深いです。

アイク生原さんの他の野球選手のサポートについて

アイク生原さんはドジャース在籍時に日本と関わる仕事をたくさんこなしていました。

巨人や中日のベロビーチキャンプ実現の便宜を図ったり、日本のプロ球団から送られてくる野球留学生の面倒を見るなど、アメリカにおける日本人選手の父親的存在として知られていました。

直接携わった選手もたくさんいるようです。

50歳まで現役を続けた中日ドラゴンズの200勝投手山本昌も「アイクさんがいなければ今の自分はなかった」とコメントしています。

まとめ

アキヒロ・アイク・イクハラ(アイク生原)さんは、日米野球交流を通じて、両国の野球文化に大きな影響を与えました。

大谷翔平選手をはじめとする多くの日本人メジャーリーガーたちが活躍できる現在の環境は、アイク生原さんのおかげといっても過言ではない、

そんな貢献をした人物でした。

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